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2011年2月20日 (日)

江戸の三官飴

 前回のページで、せっかく江戸名物の芝の田町三丁目の桜飴がでてきたので、江戸で人気であった三官飴についての考察を。
 江戸時代も中ごろをすぎると、町中にはいくつもの飴の名店があらわれるようになりました。特に、元禄(1688年〜1703年)から幕末までの二百年近くものあいだ、先の芝の田町三丁目の飴は芝三官飴、陳三官飴ともいわれ、日本橋塩瀬饅頭とならぶ江戸の名物であったといいます。他にも目黒三官飴の桐屋、長崎三貫(=官)屋、雷門外には川口屋三官飴など、「三官」を冠した飴屋がたくさんみられました。それではこの三官、いったいなんのことなのでしょうか?

 戯作者として知られる柳亭種彦(1783〜1842)という人が、慶長十八年(1613)の『見聞軍抄』に「其頃三官といふ唐人、北条氏政の印判をいただき諸州にわたり、天正六年(1578)七月二日、三崎の港へ唐船着岸す」という記事があるとを書いています。種彦は、三官飴とはこのとき唐人からその製法を学んだのではないか、と推定しています。つまり三官という名の唐人(外国人のこと)が、当時新たな飴の製法をもたらしたのではないか、というわけです。
 ではこの三官という人はどのような人であったか、というとどうもはっきりとしない(方々で、三官と呼ばれた外国人の記録がみられた)ようで、固有名詞というよりは、当時の外国人、特に中国人のイメージを抽象化して総称した、と考えられています。そして飴屋にとって三官とは、当時の新しい製法による新しい飴を象徴するキーワードであり、一種のブランドを示す名であったと考えられています。例えて言うなら、今では“国産”や“Made in japan”と、食品の多くは日本製がもてはやされておりますが、江戸時代の飴においては、“三官飴”はつまり“新中国方式”とか“inspired from China
”とでもいう感じで、もてはやされたのではないでしょうか。

 江戸時代初期には、在来の飴として、もち米と麦芽糖を原料とする水飴(膠飴〔こうい〕)と、それに地黄(漢方薬)を加えて練り固めた地黄煎(じおうせん)というものがありました。地黄煎は、平安時代の宮中で、胃や腸をととのえる薬として服用されていました。地黄はそのままでは苦いので、水飴で練って味を整えたわけです。飴はそれだけでも栄養価が高く、生薬としても使用されていたそうで、いまでも出産した婦人に飴を贈る風習が残っているのは、このためです。

 江戸時代になって三官(達?)によって、水飴または膠飴を牽引することで空気を混入させて固める技術がもたらされ、堅飴が発明されました。砂糖を原料とする飴が登場するのは、まだ先のことです。
 まだ砂糖は高級品で手が届かず、飴というものは水飴、または苦い薬を飲むための調味料でしかなかった江戸の市井の人々にとって、三官飴というものは、初めての口にころりと入れられる、廉価な甘いものだったのではないでしょうか?それを可能にしたのが“三官”と称される唐人がもたらした牽白技術であり、飴屋にとっての三官というフレーズは、既存の飴との差別化をはかる、ブランド化のキーワードだったのではないか、と考えました。そして、江戸のまちでは三官飴屋がブームを巻き起こし、次第に飴は庶民のものとなり、行商の飴売り達は、三官=唐人=外国人をまねたへんてこな衣装に身を包んで笛を吹き、子供達を集めたのでしょう。

 それはどんなに楽しい様子であったろうか、と想像してしまします。できることなら、テレビドラマ“仁”であったように、現代人として江戸の街へタイムトリップしてみてみたいものです。もっとも大好きな歌舞伎観劇は、その一つの方法でもあるのですが。
 
 

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